人間の本質 学び 歴史

宗教の起源は「選別」ではないだろうか

投稿日:2021年3月10日 更新日:

皆様こんばんは。

今日の結論はタイトルの通りです。

コレね、ノーベル人文学賞というのがあったら多分入賞してますよ。手前味噌ですが、そのぐらいのレベルの発見だと思います。

それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すみません。調子に乗りました。もう少しお時間を下さい。

 


 

さて、皆様は宗教の起源と言えば何を思い浮かべますか?

キリストの生誕?

アニミズムの発生?

はたまた道徳や脳の進化によるもの?

うっせ、んなもん知るかよ、ハゲ

(T_T)

とまぁ皆様それぞれ考えはお持ちのことと存じます。

(と言うかこんなこと唐突に尋ねられてマジメに答えられる人の方が少ないとは思います)

僕はこの問いに対して

宗教の起源は「人間を選別するために意図的に作られた」のではないか

と現段階で考えております。

どういうことかと申しますと、

例えば何かしらの起源というものを考える際、その「何かしら」の歴史について学び、考察するという手法が最もスタンダードでしょう。

その線で言うと、例えば宗教の起源とは「ものには魂が宿ると言う考え方の誕生(アニミズム)」とか「埋葬という儀式は生と死の概念が認識された原初の行為である」とかのオカルトともスピリチュアルとも言えるところに行き着くわけです。

ただ、僕はそれらを「宗教の起源は何かという問いに対する答えとして用意された回答」であって、真理ではないんじゃないかなと思います。

その根拠と言ってはナンですが、主要な宗教の起源とされる、例えばキリスト教の正典である所謂「聖書」の原本は存在しなかったり、仏教は釈迦の教えが元であったり、イスラム教の原著『コーラン』もまたムハンマドの言葉を書き記したものであったりと、現存しているものではなく、正直その起源は非常に曖昧だと言わざるを得ません。

またイスラエルの歴史学者ハラリ氏が『サピエンス全史』にて「ホモ・サピエンスが過酷な生存競争に生き残ることが出来た要因が我々ホモ・サピエンスが【ウソをつくことが出来る能力】を有していたため」と述べたこともその裏付けとなるでしょう。つまり自分が見た・聞いた・感じた以外のことを信じることが出来るということであり、言ってしまえばホモ・サピエンス自体が宗教という「ウソ」を利用するだけの素地があったと言えるでしょう。そうして宗教という「ウソ」の下、人類は発展してきたのだと考えるのはごく自然なことではないでしょうか。(ちなみに僕は今現在まだこの本を読んでいませんが……)

では結局のところ宗教の起源とは何なのでしょうか。

…と、こういうスタンスで考えていてはこの問いの答えは先と同じになるのです。

発想の転換、という程でもありませんが、僕は異なる逆説的なアプローチで辿り着きました(悟りました)。それは

どうやったらこの世界をより良い世界に出来るだろうか

という視点を持つことです。

尊大な考えですが、周りを見渡すと本当にこの世界には自分のことだけしか考えていないゴミのような人間が驚くほど多いのです。(まぁそれも人間らしさと言えばそれまでですが、僕は利己的な人間というのは人間より動物に近いと考えています。)

しかし逆に誇り高き精神を持った人々もわずかながら存在します。このような人々が上記したようなゴミ人間の歯牙に係り、利用され、搾取される社会構造には辟易します。

どうすれば搾取され続ける気高き人々を救うことが出来るのか(この世界をより良い世界に出来るか)と考えた時に、ゴミを1匹ずつ排除し、1人ずつ人々を助けるという方法では埒があかない。時間が足りないのです。

ではどうするか。

はい、ここで誕生したのが「宗教」という「教え」なのです。

つまり、人間として正しい方向性を定め、それを実践する人間のみを救済するという、「選別」が行われた瞬間でした。

そうです。これが結論として今回申し上げた、「宗教の起源は選別である」ということなのです。

そういえばよくよく考えてみると、聖書の中には「選別」を主題にしたテーマが散りばめられていることがわかります。

その代表格が「ノアの方舟」でしょう。これは神に従順で正しい人間だったノアだけが家族や動物たちと共に方舟に乗ることで、神の裁きたる大洪水から生き延びた話です。ちなみにこのような大洪水神話というのは割と多くの地域に残っている神話のようで、存外人間の発想というのは妙に近いところに落ち着くというのがよくわかります。

宗教が選別であるというのは実社会においても適用されます。

例えばユーラシア大陸の南部にインドという国があります。お隣のパキスタンは宗教観の違いによりインドから独立しました。宗教というものが本来自分と考えを共有する仲間の印であり、選別と分断を本質的に内包していると考えれば、このような事態が起こるのもごく自然なことです。ちなみにインドはヒンドゥー教国で、パキスタンはイスラム教国です。仏教の開祖釈迦が生まれた国なのにこうなってしまうとはまさか釈迦も思わなかったことでしょう。

あと全然別件ではありますが、釈迦つながりでもう一つ。

釈迦は生まれたときに「天上天下唯我独尊」と言い放ったとされています(諸説あります)。「天上天下唯我独尊」=「ワイがこの世で一番正しいのや!」。お釈迦様がそんなこと言われるはずはない、この言葉は歪曲されて後生に伝わってしまったのだ、という考え方もあるでしょうが、僕は案外釈迦も傲慢だったんだなと不思議な親近感を覚えたところでした。

 


 

さて、今日は世界中のほぼ全ての宗教の原理を根本から否定するという挑戦的な内容だったかと思います。「何抜かしてんだハゲ!意味不明だわ」と思われる方もいるでしょう。それは各々の考えに委ねますが、こう言った思考の下、宗教が生まれたと考えるアプローチがあっても良いのではないでしょうか。

とは言え、今日お話しした内容というのは僕が賢者タイム後の湯船につかってる際にふと思い浮かんだだけですので、学問的な素養の全くない若造があーだこーだくっちゃべってると思って頂ければと思います。

それでは今日はこの辺で。

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