皆様こんばんは。
「現代にも遺る故事成語を調べる」シリーズ第3弾は古代中国の楚漢戦争の時代を取り上げます。「楚漢戦争て何や?」という方もいらっしゃるでしょうから予備知識として昔の中国の王朝とその年代をまずお示ししますね。
↑古代中国の大まかな流れです(人物は僕の独断で選択)。春秋戦国時代、500年の動乱が中国大陸を焼き尽くしましたが、その中で秦の始皇帝が初めて中華を統一しました。しかし始皇帝の死後、秦の時代は長く続かず再び中国は戦乱の渦に巻き込まれることとなります。そんな中で2人の英雄が並び立ちました。楚の貴族「項羽(こうう)」と、村の農民「劉邦(りゅうほう)」です。彼らは打倒「秦」を、そしてその先にある中華統一を目指して立ち上がるのです。
「項羽」は簡単に言えば「武の人」です。とにかく戦争に強い。自らを西楚の覇王と名乗っただけはあります。誇り高く、義を重んじる。そんな感じの人です。
「劉邦」は「徳の人」と言えるでしょう。こちらはとにかく人の話をよく聴くタイプ。元々ただの村人ですからプライドなんていつでも捨てられます。建前では無く本音を重んじ、良いと思った提案は受け入れるだけの器量を備えています。
楚漢戦争は生まれも育ちも性格も異なる2人の指導者の戦いの軌跡と言えます。楚の貴族項羽と後に漢を創設する劉邦の戦いだから「楚漢戦争」なんですね。今サラッと言いましたが最終的に勝つのは劉邦で、「漢」という国を築きます。ただそれまでの幾重にも及ぶ戦いではほとんど項羽が勝利しています。最後に勝った者が勝者として歴史を作る。それが人の歴史なんでしょうね。
さて前置きが長くなりましたが予備知識としてはこんな所でしょうか。そろそろ本題に入ります。
目次
①左遷
②国士無双
①左遷
意味:今までよりも低い地位や官職に落とすこと
背景:楚から打倒秦を目指し出発した項羽と劉邦ですが、秦の都・咸陽(関中*)までにレースをします。最も速く秦に着いてこれを降伏させた者が関中の王にすると楚の王様が宣言していたためです。
*関中(かんちゅう)…秦の国門は函谷関と呼ばれる巨大な砦でした。この「関」の内側にあることから関中と呼ばれたんですね。
項羽は圧倒的な武力を以て秦軍との戦いを勝ち続けます。一方、劉邦の軍には彼を慕って着いてきた農民達が多く、軍事力は項羽軍に比べ大きく劣りました。しかしながら劉邦は征服してきた敵国の兵や民を虐げること無く進軍していったため、その寛大な噂を聞きつけた先々の城主達は劉邦軍に無抵抗で投降したのです。結果的に秦の都・咸陽へ一番乗りをしたのは劉邦でした。
咸陽へ入った劉邦は函谷関を閉ざします。この行動に秦の主力軍を根こそぎ打ち破ってきた項羽は怒ります。「秦の主力軍を打ち破ってきた自分を閉め出すとは何事か」と。これに対し劉邦が釈明の場を求めます。世に言う「鴻門之会(こうもんのかい)」です。
鴻門之会の後、項羽は秦の都・咸陽を焼き払います。その後なんと自分の国である楚の帝を暗殺し、自らを「覇王」と名乗りました。王となった項羽は中華全土を分割し、各々の土地に自分の目に掛けた武将達を割り振るのですが、この時共に秦打倒を目指しながらも、先に秦に入っていた劉邦には私怨から「漢中」という辺境の地を与えます。漢中は秦の都である咸陽の西側、つまり左側に位置していました。「左」に「遷らされた」ことから「左遷」という単語が誕生します。
一言:会社に入ってなんとも言えない部署に配属された方へ贈ります。
左遷されても腐らなかったら最後は良いことあるで!!!
劉邦は項羽に左遷されましたが、上述したように最後に勝ったのは劉邦ですからね。与えられた場所で展望と希望を持って自分のやるべきこと、やりたいことを達成していけば栄達の道は自ずと見えてくるのでは無いでしょうか。
②国士無双
意味:国に2人といない、得がたい人物のこと
背景:劉邦はとにかく人の話をよく聴く人物でしたので、彼の周りには優秀な人物が集まります。後に漢の三傑と呼ばれる「張良(ちょうりょう)」「蕭何(しょうか)」「韓信(かんしん)」の3人はその筆頭と言えるでしょう。
蕭何は劉邦と旧知の間柄で、劉邦が漢中の王になった際に丞相に任ぜられます。丞相は政治のトップで今で言う首相みたいなもんです。韓信は元々項羽の配下として使えていましたが、自分の才能を高く買ってくれないことに見切りを付け、劉邦の陣営に加わっていました。この頃蕭何は部下から推薦を受け、韓信と何度か対談しています。韓信の持つ非凡さを見いだした蕭何は劉邦に推薦していますが、さすがの劉邦もこの間まで項羽軍にいた男をすぐさま用いることはありませんでした。
「漢中」の王になった劉邦ですが、辺境の地であることが災いし、武将や兵達の逃亡が相次ぎます。韓信もまたこれに乗じて逃亡を謀りますが、蕭何は韓信の後を追いかけます。劉邦は丞相の蕭何までもが逃げてしまったのかと焦りますが、蕭何は韓信を連れて帰ってきました。何故そこまでして韓信を引き留めるのか、劉邦は蕭何に問いただします。韓信が答えました。「韓信は国士無双であり、他の雑多な将軍とは違う」と。
一言:まぁ今でこそ麻雀の役名としてしか遺っていない様に見える国士無双ですが、「無双」と言う言葉は「並ぶ者がいない」という意味で現代にも遺っていますね。僕が好きなゲームの1つである「戦国無双」や「三国無双」もこの故事が無ければ誕生しない名前だったのかもしれません。
さてこれで「現代にも遺る故事成語を調べる③(楚漢戦争編①)を終わります。近日楚漢戦争編②も追加致しますので、また宜しくお願い致します。それにしても「左遷」がこの時代由来の言葉だったとはなかなか知りもしませんでしたよね。
あと蕭何がここまで韓信を推した理由は次回わかると思います。おそらく今回よりは次回の方が知っていると言う方が多いと思いますので。
それでは今日はこの辺で。
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