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11月9日はベルリンの壁崩壊の日なんだぜ

投稿日:2017年11月8日 更新日:

皆様こんばんは。

明日11月9日はベルリンの壁崩壊の日です。1989年の出来事ですから、まだ30年経ってないんですね。今日は折しもベルリンの壁が創られて28年、崩壊してから28年というある意味で節目の日なんです。となると冷戦時代の28年間と、東西ドイツ統一からの28年間でドイツの経済がどれほど成長しているのか気になるところですが……

GDP.png

世界銀行によるデータをGoogleが加工してくれたグラフになります。

(GDPには実質GDPと名目GDPがあり、今回のグラフは実質GDPの方ですが)実際に見ているとアメリカほど大きな成長はしていないような気もしますね。というかアメリカの伸びが凄まじいです。冷戦の終焉と共にアメリカの一極体制に拍車がかかったように思います。

まぁそれは置いといて

ところでベルリンの壁とはどういったものかご存知でしょうか。

・東西ドイツを分けていた壁

・冷戦の象徴

・市民がピッケルとかで割って崩壊した

一般的にこんな感じのイメージだと思いますが、ベルリンの壁がそもそもどこにあったかご存知ですか?

「そりゃベルリンの壁なんだからベルリンだろ」

…いや、全くその通りでございます。ぐうの音も出ません。

ではどのように壁が造られていたかご存知ですか?

ベルリンの壁間違い

↑こんな感じで想像される方が多いかもしれませんが、実は……。

ベルリンの壁実際.png

実際の所、ベルリンは東ドイツの中に位置しており、壁は西側半分をぐるりと取り囲むように設けられていました。米・英・仏・ソはドイツ自体を東と西で分けましたが、首都であるベルリンは東ドイツに位置するためそれも分割しようとなりました。これだけ見ると「西ベルリンの国民が逃げ出さないように」という印象を受けるかもしれませんが、実際の目的は「東ドイツの国民が西ベルリンに逃げ出さないように」という意図で造られていたわけです。西ベルリンと西ドイツは離れていますが、直通の高速道路や飛行機(ベルリン封鎖時)によって物資や人は流れていましたから、西ベルリンに辿り着きさえすれば西ドイツ、更には他の資本主義の国へ脱走することが可能だったということです。

また、東西ドイツの国境にも多くの有刺鉄線が引かれたり、東ドイツ側の監視者がいたりするなどベルリンの壁以外の所でも東ドイツの国民は縛られていました。


 

さて1961年に造られたベルリンの壁ですが、崩壊に至った経緯も少しお話しします。その理由は

広報担当者の言い間違い

というなんとも笑撃の理由でした。まぁ格好良く言うなら「世界の人々が民主化を求めた過程で崩壊した」と言うべきなんでしょうが。。今回このように書いた理由を説明しましょう。

まずこの時代の東ヨーロッパ(ソ連側の国々=ワルシャワ条約機構)において同盟国同士はビザ無しでも自由に行き来できるという協定を結んでいました。そんな時にハンガリーが民主化に成功します。ハンガリーは第一次大戦まで隣国のオーストリア(ワルシャワ条約機構には入っていない)と同一国家であったこともあってか、オーストリア-ハンガリー間の国境が開放される運びとなりました。

さて、ここで東ドイツ国民は気づきます。

「ハンガリーを通ってオーストリアに行き、そこから西ドイツに行けるのでは無いか?」

 

ヨーロッパピクニック.png

(すみません。↑は現在の実際の地図なので少し勝手が違いますが、)まず東ドイツからハンガリーに行くために同じワルシャワ条約機構の国であるチャコスロバキア(当時はまだチェコとスロバキアに分かれていませんでした)を通ります。そしてそこからハンガリーへ、オーストリアへ、最後に西ドイツへという経路を辿ります。手順を踏むことによって実際に西ドイツへの逃亡が可能となりました。このルートは遠足をしているかのような動きから、ヨーロッパ・ピクニック計画と言われました。ピクニックてwww

これでは国民がいなくなってしまう!と察した東ドイツ政府はビザの申し込みを義務付けようとします。しかしながら東ドイツの国民は大反対。これにより東ドイツ政府はビザの審査規制を緩めざるを得ない状態になりました。

そしてビザ申請についての政府記者会見は報道局長に新任したばかりのジャボフスキー氏が担当しました。そこで彼は決定的な言い間違いを2つしてしまうのです。

①「誰でもビザを申請できる」と言うべき所を「誰でも出国できる」と言ってしまったこと。

②それはいつからですか?という記者の問いに対し、「私の認識では『直ちに、遅延無く』です」と言ってしまったこと。

この2つの間違いにより、ベルリンの壁には非常に多くの東ドイツ市民が集まることとなりました。数十人規模であれば国境警備隊が対処できるものの、何万人の市民が集まると話は別です。民衆のエネルギーは確固たる意志となり、強固な呪縛を打ち破ったのでした。

言い間違いとは言え、東西ドイツの統一に貢献したジャボフスキー氏、現在のドイツの方々は彼をどう評価するのでしょうね。ただ彼が勘違いしなかったら東西ドイツの統一が大幅に遅れた可能性はありますし、今の世界を牽引するドイツが誕生しなかったかもしれません。こんなことがあるから人の世は面白いんです。明日何が起こるかわかりませんよ。

以上ベルリンの壁の豆知識をお伝えしました。強力なエネルギーというのはふとしたきっかけで爆発するという良い例だと思います。


 

ちなみに全くの余談ですが、デビッド・ボウイ氏がベルリンの壁崩壊の2年前、1987年に西ベルリン側でライブをしていました。それは西ベルリン市民に対して行ったものではありましたが、同時にスピーカーの4分の1を東ベルリンの市民に向けていたとのことです。

 

デビッド・ボウイ ヒーローズ

英雄とは誰を謳ったものだったんでしょうね。

ボウイ氏は昨年・2016年になくなられました。69才でした。最後までロックを貫き通したボウイにどうか拍手を。

それでは今日はこの辺で。

【参考資料】

Wikipedia様-「ベルリンの壁崩壊」

Wikipedia様-「汎ヨーロッパ・ピクニック」

Wikipedia様-「ハンガリー民主化運動」

Wikipedia様-「ワルシャワ条約機構」

Wikipedia様-「北大西洋条約機構」

 

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