「クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」
-パスカル著『パンセ』より
皆様こんばんは。
上記のパスカルの言葉、この文言通りとは言わずとも、「クレオパトラの鼻があと1cm低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう」という意訳としてなら一度聞かれたことがある方も多いのではないでしょうか。
まぁ鼻が1cm高かろうが低かろうがプトレマイオス朝エジプトの衰退は変わらなかったと思うけど
ただエジプトの女王クレオパトラがローマ皇帝カエサルと盟を結んだのは史実ですし、その美貌がカエサルの心を捕え大国ローマを動かしたのもまた事実です。
このように些細なことが後々の世に影響を与えた事例は日本においても例外ではありません。
例えば皆様、テレビで「見て肛門」、失礼、「水戸黄門」を視聴されたことはありますでしょうか。「この印籠が目に入らぬか」のキャッチフレーズが名高い勧善懲悪物語です。あれは徳川御三家の一角、水戸徳川家第2代藩主、徳川光圀(とくがわみつくに)が『大日本史』編纂に辺り儒学者を日本各地に派遣して資料の収集を行ったことをモデルに生まれました。
水戸光圀が実際に全国を巡業したとか、本当はそうで無かったとかの話はこの際どうでも良いんです。今回注目したいのは何がきっかけで『大日本史』が創られたのかということなんです。実はこれ、ルーツは三国時代や秦の始皇帝よりも更に前の時代、中国最古の王朝と言われる「殷(いん)」の時代まで遡ります。
殷最後の王、紂王(ちゅうおう)は王妃である妲己(だっき)の言うことを全て聞き入れる程に溺愛し、暴政を振るったとされています。酒を注いで池とし、天井から肉を吊して林としたその様は「酒池肉林」と言う言葉となり現代にも残っているほどです。
ちなみに「無双シリーズ」で有名な(株)コーエーテクモホールディングスがデザインした妲己がこちら
まぁこれは紂王でなくとも溺愛するよね
紂王の暴政は民や諸侯の反感を買い、ついには周の武王の手によって紂王は討たれ殷は滅亡します。殷王朝討伐を掲げた武王の行軍中に2人の若者が飛び出してきて「父君の喪が更けないうちに戦をするのが孝と言えますでしょうか。主である紂王を討つのが仁と言えますでしょうか。*」と説きます。周囲の兵は2人を殺そうとしますが、正しいことを言っていると考えた武王はこれを赦します。
※武王の父親である文王が亡くなりわずかな時間しか経っていなかったこと、武王はこのとき建前上は諸侯として王である紂王の臣下であったことに対し、武王の行動が儒教の教義に反することを説いております。
武王を説いた2人の若者が伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)でした。とある国の第1王子が伯夷、第3王子が叔斉です。王子である2人が何故このような場所に居合わせたのか、それは2人が自分の国を捨てて旅に出ていたからです。伯夷の叔斉父親である王が死に際し、遺言として叔斉を王にするよう遺します。伯夷は遺言通り弟の叔斉を王位に就かせようと考えますが、一方で弟の叔斉も兄を差し置いて王位に就くことは出来ないとして王位継承を拒みました。そこで兄の伯夷は国を置いて国外へと逃亡します。弟の叔斉もまた兄を追うことを決意します。結局第2王子が王となり、互いを思いやる兄弟は揃って出国することになりました。
さて、この話は司馬遷の著した『史記』に伯夷伝として記載されています。『史記』は江戸時代以前に海を越え、日本にも伝わっていました。
そう、この「伯夷伝」を読んで感銘を受けたのが水戸徳川第2代藩主・徳川光圀その人なのです。光圀は幼少期より素行が悪く、今で言うところの不良少年であったそうなのですが、王位継承を巡り互いを思い合う2人の姿と自分と兄(松平頼重*)の関係を重ね合わせたのです。
※松平頼重は光圀と腹違いの兄です。生まれる前に頼重の母親は父親から堕胎を要求されましたが、秘密裏に頼重を出産。生まれは光圀より早かったのですが、上記理由により父親と会うことが出来ず、その間に光圀が第2代藩主と決定されていたのです。
感銘を受けた光圀はそれまでの行いを改め、学問を良く学ぶようになりました。そして「大日本史」編纂へとその熱意は向けられることとなり、同時に水戸学という儒教を基本とする学問へと昇華するに至ったのです。
18歳の光圀があの時『史記』の伯夷伝を読まなければ、「大日本史」の編纂は行われなかったのかもしれません。となると、日本の歴史というのは伝承を元に創られた「事実とは大分異なったモノ」となっていたのかもしれません。もしくは「水戸黄門」という勧善懲悪の代名詞たる物語も僕たちは知らなかったのかもしれません。いい年したオッサンが勧善懲悪と聞いて何を思い浮かべる?と尋ねられた際に
「……うーん、アンパンマン!!(ドヤ顔)」
となっていた可能性もあるのです。いやはや光圀に感謝ですね。
また、水戸学というのはやはり儒教思想から多分に影響を受けており、これを全国で学んだ人たちの中に西郷隆盛や吉田松陰がいました。彼らを感化し、幕末の尊王論≓明治維新へとつながることを考えると光圀が伯夷伝を読んだという些細な出来事が日本を、そして世界を変えるトリガーとなったのではないかと僕は考えます。
まぁ世界を変えるきっかけというのは別にこの話に限ったことでは無く、例えば
織田信長が今川義元を急襲して破っていなければ日本はどうなっていたのか?とか
ジャンヌ・ダルクが夢のお告げを無視して農民の娘として粛々と暮らしていたらフランスはどうなっていたのか?とか
クレオパトラの鼻があと1cm低かったらローマとエジプトはどうなっていたのだろう?とか
歴史の分岐点というのは意外なほど「些細な所」に落ちているものなんじゃないかなと僕は思います。同時に「些細なこと」であるが故に歴史の当事者である僕たちももしかしたら世界を変えるきっかけを持っているのかもしれませんね。
(ちなみにこの考え方は現代風に言えば「バタフライ効果」と言う表現が合っているのかもしれません。気になる方は一度調べてみるのも面白いかもしれませんよ)
さてさて、このブログが世界を、人類をより良い未来へ導くメルクマールになることを願いつつ(妄想しつつ)今日は〆たいと思います。
それでは今日はこの辺で。
追伸
今回の記事の構想を練り始めたのは6月21日の水曜日からだったのですが22日のテレビ「奇跡体験アンビリーバボー」にて映画監督黒澤明氏の話がありました。彼は小学生の頃は自分に自信が持てなかった少年だったそうなのですが、当時の担任の先生に描いた一枚の絵を褒められたことによってメキメキと自信をつけ、やがて「世界の黒澤」と呼ばれる程の映画監督になったそうです。この記事を書こうとした時に思いがけない、情報でしたのでご参考までに追記しました。
【参考資料】